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【^▽^】隋・唐は漢民族王朝か?それとも征服王朝か?【^▽^】

1 :【^▽^】日本帝【^▽^】:2000/03/25(土) 06:51
中国共産党が、「純粋な漢民族王朝」として必死に喧伝している
隋・唐の両王朝…。
特に唐は、シルクロード経営で名を馳せる中華王朝の代表的王朝だ。

しかし、漢民族の風俗を採用したという理由だけで、
隋や唐を純粋な漢民族王朝と評価させてしまっていいのだろうか?
何故なら隋も唐も、初期の皇帝たちは皆、万里の長城の外の出身である。
(現在の内蒙古自治区・当時の武川鎮の出身)

又、その苗字も怪しい。
例えば、隋の皇帝家である楊氏は、元々の性を「普六茹」といった。
これは明らかに胡姓である。
中国風の「楊」に変更するのは、隋を建国する直前になってからである。
(因みに楊堅の皇后は独孤皇后といい、鮮卑族の名門出身である。煬帝の母)
(又、唐の初代皇帝李淵は独孤皇后の妹の子供。又、元々の姓は「大野」)

科挙制度を確立し、律令システムを生み出した隋。
シルクロード経営を通して、その威光を中東にまで知らしめた唐。
そして、史上空前規模の支配領域を誇った清…
中国における偉大な王朝は、常に異民族により建国された王朝であった。
プライドの高い中国人にとって、それが辛いものであることはわかる。
だけど、真実を認めようよ…?

隋・唐は征服王朝である。

2 :名無しさん:2000/03/25(土) 22:15
>1
賛成。

3 :名無しさん:2000/03/25(土) 23:57
歴史ものもこういう視点が入ると面白いね
純粋に漢民族の大帝国といえば漢、宋、明くらいかな
そういう見方をするとだいぶ中国の捉え方も変わりそうだね

4 :名無しさん:2000/03/26(日) 01:00
中共もそうじゃん。

5 :>2:2000/03/26(日) 01:47
短絡君発見!
純粋な漢族王朝ではないが、元や清とは同レベルではない。
それに宋王朝も偉大だぞ。

6 :名無しさん:2000/03/26(日) 02:34
袁世凱の民国も漢族王朝といえるんじゃない?
皇帝とも名乗ったわけだしさ。

7 :名無しさん:2000/03/26(日) 03:11
ヤフーに転載したら効果抜群!

8 :名無しさん:2000/03/26(日) 07:14
歴史学者宮崎市定氏は、秦漢を古典古代統一王朝に分類し、
隋唐を(古典古代がいまだ復活しない分裂した)中世に分類し、
宋を民族意識の目覚めによる(古典古代復活としての)近世として
歴史を捉えていたけど、そういう視点から見ても、1氏の見解は
ある程度面白いね。

9 :名無しさん:2000/03/27(月) 15:40
元々、隋も唐も五胡十六国時代の騎馬民族王朝の延長。
だから日本的発想にたち、皇帝の血筋だけをみるなら征服王朝といってもいい。

しかし隋や唐の皇帝たちには、自分達が騎馬民族だという意識は希薄だった。
その証拠に、唐の文書では騎馬民族を“夷狄”と呼んで蔑んでいる。
つまり、自分たちは漢民族だという立場にたっている。
中共が評価しているのはこのへんでしょうね。

10 :名無しさん:2000/03/27(月) 19:40
皇帝の血筋だけなら、日本も朝鮮人の制服王朝。
それから、清は元とはかなり違う。
満州族の漢民族化がかなり進んでた。
ちなみに、康シー皇帝の母は漢人八旗の出身。

11 :>10:2000/03/27(月) 21:03
>皇帝の血筋だけなら、日本も朝鮮人の制服王朝
めちゃくちゃ言うな(笑)

12 :>10:2000/03/27(月) 21:16
>清は元とはかなり違う。
>満州族の漢民族化がかなり進んでた。

これは
「清は元より中国人に血統的に近いから、征服王朝とはいえない」
という主旨の発言かな?

因みに中国人は、「異民族の漢民族への帰属」の認否を
血統の近さなどからではなく、
中華文明への帰依の度合で判断するのよ。

つまり、満州族の風俗を棄てようとしなかった清は、
中国から見れば元と全く同じ程度の存在です。

民族的血統の近親度をみて「清と元は違う」と感じてしまうのは、
血統至上主義の日本人の感性に過ぎない。
夷狄の習俗を棄てなかった清は、
中国人からみれば全く元と同じ存在です。

13 :名無しさん:2000/03/28(火) 07:31
「中華文明への帰依の度合で判断する」のはその通りだが、血統至上主義、は、日本にはありませんよ。
血統至上主義は 、むしろ古代中国と、ヨーロッパにあって、天皇を「万世一系」とする神話は、ヨーロッパとの対抗上明治期に作られたもので、武家社会も農民社会も、養子縁組で日本は継続してました。

清と元は中華文明への帰依の度合いはだいぶ異なります。元は原則的に中華文明を無視しましたが、清は中華文明の優秀な婿養子、とされてます。

ところで中共政府は自分の国家を「多民族国家」と定義しているので、やはり多民族国家でかつ漢民族が被支配階級ではなかった唐を宣伝するのは、戦略的にはわからんでない。いい悪いは別として。

14 :名無しさん:2000/03/28(火) 07:42
>康シー皇帝の母は漢人八旗の出身。
細川護熙で出ました。


15 :10:2000/03/28(火) 10:35
私の言ってるのは文明の帰属度。
清後期には満州族語を話せる満州族が少なくなってたと聞いたことある。

16 :>13:2000/03/28(火) 16:10
違うよん。
血統至上主義というのは、民族レベルでの血統。
即ち、民族的血統主義のことでし。

プライベートにおいては、日本人は自己の所属している組織主義で
むしろ反血縁主義でし。
以上。

17 :10:2000/03/28(火) 16:35
征服王朝か否かはその政権の中枢をどの民族が占めてるかで決まるじゃないかな。
唐と隋は大臣や武将がほとんど漢民族で、たまたま皇帝が漢族に帰化した
人であるだけだ。清は中間的で、半々かな。

18 :2だけど:2000/03/28(火) 22:44
>17
>唐と隋は大臣や武将がほとんど漢民族

勉強しなさい。
隋は北周の関隴集団の一族が戦力の基盤だったし、
唐も中期まではその勢力を引き継いでる。

>清は中間的で、半々

たぶん、各部署の責任者などが漢満両人で分けられてることを
さしてるんでしょ?でもそんなのは政策的な目くらましにすぎない。
満族の風俗を漢族に押しつけてるんだから十分に征服王朝と呼べるよ。
太平天国の乱などが何故起こされたかとか考えましょう。

19 :【^▽^】1でし【^▽^】:2000/03/29(水) 00:01
今世紀初頭、孫文が辛亥革命で清朝打倒を呼びかける際、
その理由の筆頭に「清朝の皇帝たちが満州族出身」であることを挙げている。
これは、孫文はじめ当時の中国の民族運動の指導者たちが、
清を明瞭に征服王朝と認識していたことを意味する。

満州族を“中華民族”の中に包括するようになったのは、
文化的御都合主義者(=覇権主義者)である毛沢東が政権を握ってからです。
それまでは、万里の長城の外の人間を漢族に含める発想はありませんでした。

その証拠に、伝統的中華文明の信奉者であった孫文にいたっては、
日本との取引を有利に展開するために、
日本に対して満州の放棄を臭わせた文書が発見されています。
(発見当時、中共は例によって贋作を主張したが、追認した模様)

思うに、清はあの髪型を漢族に強制したのがまずかったと思うね。

例えば、元も髪型は清と同じく辮髪だったけど、他の民族には使わせなかった。
現在のチベットにあった国(名前は失念。西夏だっけか?)が、
元に対して自民族に辮髪を採用する許可を求めたことがあった。
しかし、元の当代の皇帝(これも失念)はこれを許可しなかった。
それに比べ、清は漢族に辮髪を強要した…

それに隋・唐と清ではスタンス(立場)が違うよ。
隋・唐は騎馬民族を夷狄と呼んで蔑視した。
つまり、自己の立場を漢民族に置いている。
それに比べ清は、自王朝を「夷狄」と呼ぶ漢族の学者を多数処刑している。
要するに、清は自己を異民族だと認めている。

この違いは大きいよ。
その統治に漢族を加えるという程度の妥協では補いきれない。

因みに、王朝を挙げて漢族に帰依した北魏などは、何故か征服王朝とされている。
やはりボクから見ると、隋・唐を漢族扱いするのは、
隋・唐のスティタスから必要性が生じているからとしか思えんのだが…
(もし隋・唐が短命王朝なら、絶対に征服王朝の烙印を押されたと思いまし。


20 :清朝のもう一つの顔(中華王朝のみにあらず):2000/03/29(水) 02:02
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仏教思想を背景とした国際関係の理念と清朝1
Dalaibaatur
 6-18世紀にかけて、東アジア西部のチベット仏教圏諸国では、仏教と仏教の世界観が、漢字文化圏における儒教・中華思想のそれと同様、国際関係を律する理念として機能しました。ひとつの時代ごとに一対の「仏」と「転輪聖王」が出現し、相携えて仏教をもって世界を安寧に導くというものです。具体的には「仏」にはダライラマが、「転輪聖王」にはモンゴル高原の覇者たちや、後には清朝皇帝たちがあてられました。この理念における「転輪聖王」の位置づけは、正しい仏法の広宣に勤める「仏」への奉仕者というもので、中華思想における「天子」とはまったく別物です。
 18世紀後半までにチベット仏教圏諸国のほとんどが、軍事・行政など世俗面では清国に征服・吸収されましたが、その後も清朝皇帝は仏法に奉仕する「転輪聖王」のとしての役割を果たし続けました。20世紀初頭、清朝がこの理念を放棄し、漢人に施行していた理念・制度でもって全版図を再編しようと図った時、チベット・モンゴルの離反が開始し、ほどなく清国は滅亡します。

Yahooより転載
http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=yahoo.7a.12.835209&topicid=340m00&msgid=8ahg08$fho$2@m00.yahoo.co.jp
 

21 :ダライバートル:2000/03/29(水) 02:03
仏教思想を背景とした国際関係の理念と清朝 2
Dalaibaatur
 この理念においては、ダライラマを中心・頂点とする宗教的ヒエラルヒーに、転輪聖王を筆頭とする俗人権力者(清朝皇帝、チベット・グシハン王朝の皇族たち、その他のモンゴル人領主たち等)が、奉仕(法を聴く・寺院や宗教的権威に寄進する・自身や領民のための法要を行って貰うための費用を寄付)するという図式が見られます。18世紀に入り、チベット仏教圏諸国が次々と解体・再編され、その俗人権力者たちが清朝皇帝に臣属するという現象が進行しますが、皇帝をはじめとする俗人権力者たちによる、この宗教的ヒエラルヒーへの奉仕という図式は揺るぎません。グシハン朝チベット=ハン国に対する1723-24年の征服、解体という事件にしても、ダライラマ領に限ってみるならば、奉仕者がグシハン王朝から清朝に交代しただけ、とみること可能です。ケサンギャムツォが1720年にダライラマとしてラサで即位するにあたり清朝が極めて大きな役割を果たし、また八世以降のダライラマの即位や転生者の認定に深く関与したことは事実ですが、これを「チベットが中国の一部となった」とか「チベットが「中国」に臣属」したいう観点からのみ見るのは、まったく一面的といえましょう。

原載
 http://messages.yahoo.co.jp/bbs?action=m&board=yahoo.7a.12.835209&topicid=340m00&msgid=8ahlcs$qvv$3@m00.yahoo.co.jp

22 :20の訂正:2000/03/29(水) 02:10
 4行目(文頭)
6−18世紀 → 16−18世紀

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