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後漢/光武帝について

1 :名無しさん:2000/04/08(土) 00:01
の情報を教えてください

2 :名無しさん:2000/04/08(土) 03:59
男でした

3 :名無しさん:2000/04/08(土) 07:27
若い頃はシャイで、結構ミーハーな兄ちゃんでした。
日本人に通じるものがあるますね(?)。

4 :1:2000/04/08(土) 11:44
レスありがとうございます

> 2
はい。どうも男の人だったようですね

> 3
> 若い頃はシャイで、結構ミーハーな兄ちゃんでした。
> 日本人に通じるものがあるますね(?)。
秀君が優しく、内気な青年だったことはいろいろな逸話が残ってますね。彼の妻である麗華って娘にプロポーズするのに10年掛かったとか
ミーハーについては初めて知りましたが、何かそーゆー話があるのですか?

ところで光武帝26将のメンバについて誰か知りませんか?

5 :名無しさん:2000/04/08(土) 13:52
降伏した敵に寛大だった、とは聞いています。
でも、光武帝について書かれた伝記や史書、小説の類って
書店でみたことがない。後漢書の完訳版を!

おまけ
大韓帝国の高宗皇帝も、元号が「光武」だったので
光武皇帝と呼ばれます。

6 ::2000/04/08(土) 22:43
>1さん
まさかレスが返るとはおもっていなかった、、、
1さん気に入りましたよw
前に後漢スレッドで28将の一人が気に入ってるって
書いたのだけど、つまらんレスしか帰ってこなかったから
あなたのような人がいてうれしいです。
28将、喜んで教えましょう。
(26ではなく28なのでよろしく)

雲臺観二十八将(うんだいかんにじゅうはっしょう)
トウ禹・馬成・呉漢・王梁・賈復・陳俊・
耿エン・杜茂・寇恂・傅俊・岑彭・堅鐔・
馮異・王覇・朱祐・任光・祭遵@` 李忠・景丹・
万脩・蓋延・ヒトウ・銚期・劉植・耿純・
臧宮・馬武・劉隆

以上です。
急いで書いたので漢字に間違いがあるかもしれないです。
そのときはお許しを。

ちなみに劉秀がミーハーだったなんて私も初めて知りました。
どういうところがミーハーだったんでしょ?
(劉秀は倹約好きな堅実な人柄だったと紀には書いているけど、、、)

7 ::2000/04/08(土) 23:54
みなさんまたまたありがとうございます

> 5
> 降伏した敵に寛大だった、とは聞いています。
ますますもって理想の名君ですね\(^O^)/
一体、秀君の悪口って残ってないんでしょうか?
政治的、軍事的に才能は李世民にやや劣ると思いますが
友達になりたいのは圧倒的に秀君の方ですね

> でも、光武帝について書かれた伝記や史書、小説の類って
> 書店でみたことがない。後漢書の完訳版を!
そーなんですよ(T_T)十八史略で秀君を知ったのですが、
後漢書やその時代モノって無いんですよねぇ

8 ::2000/04/09(日) 00:12
> 6
すごい!圧倒的な知識量に目が(・o・)です。アーンド感謝感激です!!
ちなみにオイラはただの中国史ミーハーなんで、、、28将、、、名前すら読めません(爆
紀に書いてあるけどって光武帝本紀ですか?正史を読まれたとか?すごい

ところで光武帝の義理の叔父で皇族であるがゆえに28将に数えられなかった
人がいるって聞きましたが、ご存じですか(質問ばかりですみません)

でわでわ

9 ::2000/04/09(日) 22:30
>1さん
紀はおっしゃる通り後漢書光武帝紀のことです。
雲臺観二十八将は正史にそのまま載っているので
調べれば誰でも分かりますよ。後漢書列伝第十二巻です。
あと、28将に王常・李通・竇融・卓茂の四人を加えて32将っていう場合もあります。
これも正史に一覧で載っています。
(読み方は適当に漢語辞典ひいてくださいな(笑)、
ご要望があればフリガナと官職付で再度28将を書きますけど)

>光武帝の義理の叔父で皇族であるがゆえに28将に数えられなかった
>人がいるって聞きましたが、ご存じですか

こういう聞かれ方をする人物、、おそらく真定王劉揚じゃないですか?
劉揚は劉秀の奥さんである郭聖通の伯父さん、そして皇族です。
(注:郭聖通は劉揚の妹の娘なので叔父ではなく伯父になります。)

でも1さんもよくご存じですね。私は『十八史略』を読んだことがないのですけど、
『十八史略』ってそんなに詳しく書いている物なのですか?

10 ::2000/04/11(火) 00:00
うーん。正史自体が見たことがないんですよ。結構本屋やネットを探し回ったんですが
図書館だったらあるのかな?どこで正史を手に入れられたのですか?

真定王劉揚ですか。もう記憶の彼方なんで真偽は分かりませんが
多分間違いないでしょう。具体的にここまでの情報が符合する人物が
何人もいるとは思えないし

光武帝のことを知ったのは十八史略(陳舜臣版)が初めてですが
その後いろいろ光武帝や後漢について調べたのです
確かにあんまり書いてませんでしたよ>十八史略

11 ::2000/04/11(火) 22:18
>1さん
正史は普通の書店にはたぶん無いでしょうね、、、
私は福岡に住んでいるので福岡市内にある
中国書店っていうところでいつも中国関連書籍を買っています。
東京だったら東方書店とかが有名ですね。
http://www.toho-shoten.co.jp/
東方書店のURLです。
中国書籍のお店では大半は通販やっていますよ。料金後払いです。
図書館は大きな図書館なら大抵置いていると思います。

あっ、ちなみに後漢のことを知ろうと思ったら
紀伝体の『後漢書』だけではなかなか理解しづらいと思います。
そこで、司馬光の編んだ『資治通鑑』を併用することを勧めます。
人物のことを知りたいだけなら『後漢書』だけで十分ですが
全体的な流れや年ごとの事件を読むにはどうしても
編年体である『資治通鑑』が必要となってくると思います。

>もう記憶の彼方なんで真偽は分かりませんが多分間違いないでしょう

私もたぶん間違いないとは思っていますが(^^;
劉揚という人物、、ちょっと哀れというかかわいそうなんですよね。
劉秀が王昌に負けてずたぼろのときに、劉揚は十万余の兵と眞定の地を
手みやげに劉秀軍に味方したのです。劉揚の兵力と奥さん郭聖通の一族の
おかげで劉秀軍は王昌に勝利することができたのですけど、、
劉秀は劉揚の血筋(皇族であること)を恐れて、劉揚を謀殺しちゃうのです。
天下統一の足がかりをつかませてくれたのに容赦ないです。
郭聖通も結局廃后させられちゃうし、、、

でもこの話は結構有名だから知ってたかな?
とりあえずこの辺で。

12 ::2000/04/13(木) 00:17
> 11
間違いの訂正があります、、、
僕の記憶にあったモノは
1 光武帝の義理の叔父で皇族だった。28将に数えられなかった
2 光武帝の部下で大いに武勲を立てたが、娘が皇室に入ったので
皇族待遇になり、そのため28将に数えられなかった
の2人がごっちゃになったものでした。やっぱ付け焼き刃わいかんわ<オレ(*^_^*)
1は劉揚、2は馬援です

> 福岡市内にある中国書店
え?市内のどの辺にあるのですか?今度行ってみます

> 司馬光の編んだ『資治通鑑』
この資治通鑑ってけっこーゆーめーな史料ですよね。本屋でも
見たことあるような気もします。ゲットだぜ

> 劉秀は劉揚の血筋(皇族であること)を恐れて、劉揚を謀殺しちゃうのです。
> 天下統一の足がかりをつかませてくれたのに容赦ないです。
ぬおぉ!この話は初めて聞きました。陳舜臣版の十八史略では
わざと割愛してたみたいです。これに載っていたのは、
1 秀君がピンチに陥ったとき、劉揚の支援を得るため、麗華を差し置いて郭聖通を皇后に立てた
2 麗華は嫉妬するどころか「郭皇后」という政略結婚を積極的に支持した
3 秀君は後に、麗華との愛を貫くため、郭皇后を廃した。めでたし、めでたし
なーんか180度印象の違う話に仕立ててますな。やっぱ陳先生はすごい小説家だ

13 ::2000/04/13(木) 00:34
今僕の手元にあるのが田中芳樹の中国武将列伝てゆーやつで
光武中興の時代から、光武帝、トウ禹、馮異、岑彭、呉漢、馬援の
6人が紹介されています

特にトウ禹、馮異を光武帝の両翼のような扱いにされています
この2人って実際、功績は大きいのでしょうか?
例えば28将の中から「5本の指に入る」とか言ったら誰を推しますか?

でわでわ

14 ::2000/04/14(金) 01:15
この時間の2chは重いですね。このスレッドが全然表示されずに
困りましたよ。エディターで別に書いてましたよw

>1さん

>1 光武帝の義理の叔父で皇族だった。28将に数えられなかった
>2 光武帝の部下で大いに武勲を立てたが、娘が皇室に入ったので
>皇族待遇になり、そのため28将に数えられなかった

これって13にある田中芳樹が書いていることなのですか??
となると、田中芳樹は読みがちょっと甘いなぁ、って思います。

まず、劉揚ですが、劉揚が28将にあげられないのは
後漢王朝が劉揚に対して後ろめたいからではないかな?と思います。
(11の書き込み参照)
次に、馬援ですけど彼の娘さんはたしかに明帝荘の奥さんになってます。
だから馬一族は外戚ですね。
ですがこれは馬援が28将にいれられないのとはちょっと理由が違うと思います。
28将に数えられるに、実はある条件があるのです。
それは「建武元年において劉秀の家臣であった」という絶対的な条件なのです。
馬援はこの条件からもろにはずれているのですよ。

とりあえず劉揚・馬援が28将に入れられない理由でした。

>え?市内のどの辺にあるのですか?今度行ってみます

ということは1さんは福岡にお住みなのですか。
これはまた奇遇ですね。下手な説明よりHPを紹介します。ええっと、
http://www.jpal.com/index.html
これが中国書店のURLです。

次に続きます

15 ::2000/04/14(金) 01:19
続きです。

>1 秀君がピンチに陥ったとき、劉揚の支援を得るため、麗華を差し置いて郭聖通を皇后に立てた
>2 麗華は嫉妬するどころか「郭皇后」という政略結婚を積極的に支持した
>3 秀君は後に、麗華との愛を貫くため、郭皇后を廃した。めでたし、めでたし
>なーんか180度印象の違う話に仕立ててますな。やっぱ陳先生はすごい小説家だ

ほうほう、そういうラブロマンスになっているのですかw
よいストーリーだと思います。
劉秀は陰麗華を30年間愛し続けてますからね。
劉秀が若い頃には「仕宦當作執金吾、娶妻當得陰麗華」
(官に仕わばまさに執金吾となるべし、妻を娶らばまさに陰麗華を得るべし)
なんて言ってますし。

>特にトウ禹、馮異を光武帝の両翼のような扱いにされています
>この2人って実際、功績は大きいのでしょうか?

[登β]禹と馮異はどちらも大活躍してますね。
どこらへんのことまで書けばいいのですかね??
田中芳樹がどこまでこの二人のことを書いているのか分からないから
何を説明すればいいかわからないですが、、、

トウ禹は将軍としても軍師としても活躍している人です。
特に人材登用に当たっては劉秀に的確な進言をしています。

馮異は主に将軍として活躍した人物です。
対赤眉戦でトウ禹とともに戦い、敗戦する場面があります。
トウ禹はこのとき少ない部下を率いて帰っちゃうのですけど、
馮異はあきらめずに兵を再度募り、赤眉を攻撃、うち破ってしまいました。

>例えば28将の中から「5本の指に入る」とか言ったら誰を推しますか?

これが一番むずかしい質問ですね(^^;
トウ禹と呉漢は絶対に入れないとダメでしょう。
あとは馮異・賈復・耿エンあたりですかね。

16 ::2000/04/14(金) 01:32
うっ、申し訳ない。
二つとも一覧で表示しきれなかったか、、、
以後は分離させます。

17 :名無しさん:2000/04/15(土) 09:14
漢書『王莽伝』の、王莽の最期を伝える場面
おそろしく迫真的な気がするんですけど。
宮中の各所を赤眉軍を避けつつ移動する王莽とその臣下達
追い詰められていく有様・・・・。

何か、当時の王莽の臣下の生き残りによる記録でも
あったんだろうか?

18 ::2000/04/15(土) 21:57
>17さん
んー、残念ながら私は『漢書』を持っていないのですよ、、
日本語訳が筑摩の文庫ででているから買おうかな?とかおもっているのですが、
なにぶん筑摩文庫は高くて、、、
とりあえず王莽の最後の場面は『資治通鑑』で見ているだけです。
よって

>何か、当時の王莽の臣下の生き残りによる記録でも
>あったんだろうか?

この答えは私、知らないですw
有識者が現れるのを待ちましょう。

ちなみに『資治通鑑』に描かれている王莽の最後もかなりよく
描かれています。
王邑親子は必死に防戦するも次々に戦線をやぶられ、
矢合戦をする矢もなくなり接近戦を挑んで敗死。
ほかの武将も次々と殺されてますね。

『漢書』は具体的にはどんな感じなんでしょ?

19 :渋苦:2000/04/27(木) 15:31
>1さん 2さん
「漢委奴国王」金印以来の伝統ですか? 福岡と光武帝つながりは。
なんか、「九大歴愛会」とかいう歴史同人が『光武中興関係人物小辞典』
なんてのを出しているし。

>「五指に入る」
 列伝の配列を遵守して、トウ禹・寇恂・馮異・岑彭・賈復を推挙。
耿エンは対張歩戦は見事だけれど、それっきりだし。呉漢は武闘派だし(笑)。

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