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幕府(鎌倉以降ね)という概念はいつどのようにして生まれたんですか?

1 :名無しさん:2000/05/07(日) 12:50
征夷大将軍とか、教科書に書いてないんで
教えてください

2 :>1:2000/05/07(日) 13:04
えええっ?
載ってるだろ?
坂上田村麻呂の話。
鎌倉幕府の話。

3 :ある@実は文転失敗の機械科学生:2000/05/07(日) 16:55
 征夷大将軍という地位は律令には定められていない臨時官職で、
蝦夷などを征討する「持節大将軍、征東使」などから発展した役職で
ある。元々「征夷使(征東使)」の一等官である大使(大将軍)が
が転化したモノであり、坂上田村麻呂が征夷大将軍の初例とされるが
実は征東大使、征東大将軍などは存在していたわけで、歴史はさらに
古い。征夷(大)将軍の称号の初見は養老四年の多治比真人県守に
求められると思う。また、征東大使大伴宿彌弟麻呂が延暦年間に
征夷大使、征夷将軍の称号を授かっている。坂上田村麻呂はその
元で征東副使、征夷副将軍の地位にあったので、その後任のはずで
ある。この一定しなかった征夷使の名称は、坂上田村麻呂の輝かしい
武勲によって「征夷大将軍は最強の軍事指揮官」であるという
正確を帯びたのである。以上、征夷大将軍の称号について。



4 :ある@実は文転失敗の機械科学生:2000/05/07(日) 16:59
 「幕府」というのは大将軍の称号を帯びたモノ、古くは持節大将軍
一般には征夷大将軍の在所、軍事指揮を言ったに握る司令部のことを
指す。これは、野外陣地で「幕」を使っていろいろな場所を仕切った
ことからそう呼ばれた。(と、思う。うろ覚えだけど)

5 :ある@実は文転失敗の機械科学生:2000/05/07(日) 17:07
 頼朝が右近衛大将では満足せずに「征夷大将軍」に拘ったのには
いろいろと理由があったと思う。ひとつは、前述の坂上田村麻呂が
歴史に残る武勲を持つ武人だったので、田村麻呂と同じ称号が欲し
かったとか、木曽義仲が何日かでも「征夷大将軍」を名乗ったので
名乗らなければ気が済まないとか(笑)。もしくは、源義家が
かつて鎮守府将軍だったので、その「上級」の称号である「征夷
大将軍」を名乗りたかったとか、東国の支配を固めるために、
征東使たる「征夷大将軍」のネームバリューが魅力的だったとか。

 ほかには、どうでしょう? みなさん。

6 :名無しさん:2000/05/07(日) 17:30
>5

個人的には木曽義仲との兼ね合いが一番大きかったと
思うけど・・・。

「武門の棟梁」って意味が加わるのは鎌倉幕府の結果だよね。

7 :ある@文転失敗の機械科学生:2000/05/07(日) 21:14
>5さん

 そうですね、前述の通り、もともとの「征夷大将軍」には
「武門の棟梁」の意味合いはなかったわけですから、頼朝が
征夷大将軍に就任したことから「武門の棟梁」の意味合いが
付いてきたと言うことになりますね。そう言う習慣的な意味から
すれば、違う場所でも述べたとおり、江戸幕府の将軍が、養子で
なければ大体「右近衛大将」を経てきているのも頼朝の影響で
しょうね。

8 :12:2000/05/07(日) 23:31
これは、勝手な推測で、非常に突き上げをくらいそうなのですが。
征夷大将軍の称号の最大のメリットは、中央政権から出撃した軍団長
という肩書きで中央からの突き上げを微妙に交わしつつ、しかしなが
ら中央政権が承認した最大の軍事掌握権を持っている意味合いから、
軍事上の如何なる権限も鎌倉に集中させる目的を果たそうとしたと思
うんですけど。
そもそも、武士団にとっての説得としては、「清盛と同じく太政大臣
はえらいんですよ」よりも、「軍事的にもおれがてっぺんだ」と云った
方が早いと判断したと思うんです。
それ以外の心理としては、皆さんと同じ。

9 :名無しさん:2000/05/07(日) 23:54
大将軍の意味は中国のそれと同じ。
孫子の話でもあるでしょ?
行軍中は部下の処分を将軍に一任されてんだよ。
皇帝が頼むから殺さないでくれって言った宮女を
孫子は殺したでしょ。
そういったことを頼朝公の側近だった
大江広元は知ってるわけよ。
それで、義仲の例をとって任官願いを出したんだけど
鎌倉方の意味するところを京でもわかったんだろうね、
断固拒否したわけだ。義仲の場合はうざいので
早く京から出て行って欲しかったから任官した
だけなのに、鎌倉方は逆手に取ったわけだ。
大将軍なんかにしたら、京とは違うピラミッドが
できちゃうんだから。困った京方は右大将に任じるん
だけど、頼朝公は即返上。結局、後白河が崩御するまで
大将軍になれなかったわけだ。

10 :名無しさん:2000/05/08(月) 00:16
>7
足利、徳川の場合、大将は将軍になっても兼ねていない?
征夷大将軍の場合は令下の官で官位相当が明瞭では無いけど
頼朝以前の例や没落した足利将軍の場合は4位程度だったよね。

11 :ある@似非機械学生:2000/05/08(月) 02:19
 いや、徳川将軍は、概ね内大臣をかねているはずです。だって
右近衛大将は従三位相当官、御三家筆頭の尾張家は大納言で正三位
相当官なので、将軍はその上を行くはずですから。
征夷大将軍そのものは鎮守府将軍から考えると、陸奥出羽按察使
ぐらいの力はありそうなので、従四位下というのが妥当なところ
では?

12 :ある@似非機械学生:2000/05/08(月) 02:31
>9
 なるほど、孫子の例は忘れていました。すると未だ「大将軍」では
ない頼朝が、検非違使庁の別当たる義経を討伐するのに後白河院から
院宣が必要になるのは、そういう事が背景にあるのでしょうかな?


13 :名無しさん:2000/05/08(月) 03:55
>10

 確か家康は、内大臣・淳和勧学両院別当・源氏ノ長者、の時点で
将軍宣下を受けたと思います。

 一応これがその後徳川本家の当主たる者の就く官の基準に
なるけど、将軍就任後にさらに太政大臣になっちまったりする例も
何例かあったような気がする。つまり極官はまだ上ですね。

 右大将はどうなんでしょう。形式上、将軍宣下の直前に右大将から
内大臣に昇進することになってるのかな。それとも兼官?手元に資料が
ないからちと不明確。近衛大将は令外の官だけどだいたい従三位ぐらいの
官職で、内大臣はまるまる1ランク上の従二位でしょ。太政大臣となると
従一位になってしまう。兼官するとなると不相応な気がする。

 足利将軍の官位はどうでしたっけ・・・

>9

 大江広元の献策があったって話は聞いたことがあります。
なるほど、やはり形式的には京都の権威に服しながら、実質
日本を治めるってやり方を意識して将軍を欲したのですかねえ・・・。

14 :名無しさん:2000/05/08(月) 07:35
>13
元服して左馬頭から中将、極官は無しじゃ無かったかな?
昇進ペースは確か清華に準じていたと思う。

15 :名無しさん:2000/05/08(月) 07:47
http://www.asahi-net.or.jp/~me4k-skri/han/tokugawa/tokugawashogun.html

16 :名無しさん:2000/05/08(月) 10:46
>1
中公新書「武家の棟梁」(確か700円程度)に、君の疑問は語りつくされてるよ。
大変な名著なので読んでください。

因みに、歴代の武家政権が征夷大将軍という名称や幕府政治を標榜したのは、
明らかに武家政権の開闢者・源頼朝の権威の相続を意図したものですな。

そこで重要となるのが、頼朝の征夷大将軍・及び幕府標榜の意図ですが、
これはズバリ、当時の「奥州支配の確定」という
要素が大きかったと書いてあった気がします。

当時の奥州は黄金や馬の産地で、頼朝はその莫大な富の独占を意図していた。
しかし、自分の任官する官職がそれまでの奥州統括者と同様の「鎮守府将軍」職では、
当然の習慣として、奥州にも朝廷への納税の義務が生じてしまいます。

そのため、「奥州における独自の徴税権の行使」を許可されていた
「征夷大将軍」職を復活させたそーです。
そうすれば東北地方一帯を事実上の免税地域・
いわば武家版荘園にすることができるのですから…
(因みに、幕府とは武家版荘園に他ならないとか書いてあった気がします)

17 :9:2000/05/08(月) 12:32
奥州藤原氏は藤原姓を金で買ったほどの中央より。
つまり、超保守的ってことだ。鎌倉方と並立しるわけがない。
京と奥州から挟み撃ちにあう危険性を回避するためにも
奥州討伐は必然だし、なぜ、征東や征西じゃなく征夷なのかも
わかるだろ?
>ある@似非機械学生
自分の家来を処罰するのに、一々院宣なんて必要になったら
幕府の構造自体成り立たない。要は朝廷の権威を利用して
自分自身が権威になる必要に迫られたとき、大将軍しか
なかったというわけだ。


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