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合戦の実際

1 :名無しさん@1周年:2000/05/30(火) 17:02
なんか刀でえやーとか言って集団乱戦になるのかと思ったら、
槍のが長くて強い筈だとここではよく書かれています。
なるほど、でもそうなると、弓の方がいい筈です。
では、合戦というのは弓の撃ち合いだったのでしょうか。

あと、上級武士が命かけて戦うのは納得出来るとしても、
そこらの農村から志願したり狩り集められたような足軽はどうなんでしょう。
どうも、命がけで戦ったとは思えません。
実際には双方戦うふりだけで、上級武士同士の一騎打ちで決着、という事は
なかったりするでしょうか。

2 :名無しさん@1周年:2000/05/30(火) 19:28
用途ってモンがあるでしょうが。
長槍は、対騎馬。接近戦に持ち込まれたら、刀が強いに決まってる。
弓は、当然数に限りがあるし、弓の種類によっては射つのに時間がかかるのもある。
そういう意味では、火縄銃も一緒。
敵の兵科によって、それに合わせた兵をぶつけるに決まってるでしょ?
戦国時代は、銃の斉射から、歩兵を突撃させるのが定石だったみたいよ。
それが、槍か刀かは知らないけど。
弓は、火縄銃の弾込めの間に牽制に使われてたとかどっかで聞いた。

農民が戦うのは、土地を守るため。
だから、守るための戦いは強い。
後は、当然出世を夢見る奴もいただろうし、善くしてくれる領主(大名)
の為に戦う奴もいただろうに。
全ての兵が、イヤイヤ寄せ集めで構成されるって事はないと思うが?

農民から徴兵されると言うのは、時代によって様々だが
奉公で、一定期間だけ兵として飼われて、また農民に戻る
などというシステムもあったしね。

3 :名無しさん@1周年:2000/05/31(水) 01:29
 鉄砲に関してだけど、いろいろ言われるほど各大名家は持ってなかったと
聞いたような……。(信長にしてもね)
戦国の世も年がたつにつれ、当然軍団内に鉄砲の占めるシェアは増えたと思う
けど、やはり槍や騎馬、刀が主流だったのでは?
ただ雑賀党はどうかわからんけど。
そういえば、雑賀孫市ってやっぱり鈴木重秀なのかなあ。

4 :>2:2000/06/05(月) 09:12
>後は、当然出世を夢見る奴もいただろうし、善くしてくれる領主(大名)
>の為に戦う奴もいただろうに。
>全ての兵が、イヤイヤ寄せ集めで構成されるって事はないと思うが?

それは現代人の感覚だろ?

実際足軽から出世した奴がどれ位いると思ってんの。
足軽大将あたりでちょっとした屋敷が持てればいい所、
それもそういう屋敷はいくつかの村に一件という割合だろ。
数十人の足軽が宿泊出来る規模だというから、数村から数十人兵隊が出て
その中の一人が頭になるといった所だろう。
それらをいくつも束ねる城持ちの武将になれた者などはだから何百人何千人に一人、
全国内でみても数える程度が精々で、
更にそうした武将を抱える国持ち大名などには「平民にはなれない」というのが
通念だろう。

今川や武田織田北条といった武家も、ほとんどは皇族の子孫やそのまた分家だし、
そういった身分や血統を重視する風潮は封建社会では強くあっただろう。
封建というのは彼らの一族で独裁する為のシステムみたいなものなんだから。
大名武将は彼らの子孫、
希に市井から武家が出ても隆盛を築くなんて事は
まずなかっただろう。

誰かが必ず出世して行く現代とは事情が違うのだから、
出世観は随分違った筈だ。
身分が違う、みたいな意識はあっただろう。
木下藤吉郎みたいな大それた人はほとんどいなかったのではないか?
それでも野心を持ってる人はそれはいただろうが、
何割もいたのか?
軍の士気が戦闘意欲旺盛になる位。

どんなにいい領主だからって、命かけて戦うか?
相手が悪い領主だと決まってる訳でもないのに。

5 :大阪人@一周年:2000/06/05(月) 10:23
秀吉と後北条氏が戦ったときには、農民たちは
かなり激烈な抵抗をしたようです。何故か?四公六民だったというのが
大きかったと思います。(後に徳川が天領でこの相場だったのは、
旧後北条の民をなだめる意味合いもあったと思われます。)
長曾我部では、国民皆兵的な一領具足制で、農民たちは
みな長曾我部の臣、というような気分が生まれていました。
彼らの戦意はかなり高かったでしょう。
ちなみに私の先祖は後北条氏とともに武士の地位を失い、
江戸時代には、いわゆる郷士のような存在になってしまいました。(泣)

6 :名無しさん@1周年:2000/06/05(月) 12:30
藤木久志『雑兵達の戦場』朝日新聞社
を読みましょう。
村人と戦、権力の関係に新しい見方を提示した本です。
藤木さんは史料に厳しい方なので至る所に根拠となるさまざまな史料も
提示されております。

内容をかいつまむと、戦は村人達の数少ない稼ぎ場でもあった。
これは稼ぎに没頭して言うことを聞かない雑兵達に大名達が苦労したことが
うかがえる史料や、複数の軍記物による戦に対する認識、戦の多発する時期、
戦のようすを記した当時の記録等々から語られています。
それから、村に割り当てられた兵役を勤めるのが戦で使い物にならないような
者が多く、大名はわざわざ屈強な者や庄屋の息子などの村の代表人物と
なるような者を出せと命令まですることがあった。兵として出すためにわざわざ
被差別の身分の者が村に養われていたらしき形跡もあるとか。

藤木さんの本は本当におすすめです。ぜひご一読を。

7 :名無しさん@1周年:2000/06/05(月) 12:48
 農民が必死に戦うのは、周りの足軽たちも近所から徴兵された農民で、皆知り
合いだったという理由が大きいのではないでしょうか。
 臆病な振る舞いをしたり、逃げ帰ったりすれば、戦が終わって村に帰っても、
村八分のような扱いを受けることもあったと聞いたことがあります。
 その点、信長の編み出した兵農分離による専門兵部隊は、組織に対する帰属意
識が薄く、戦況が不利になるとクモの子を散らすように逃げ去りがちだったとか。
 今の社会でいえば、正社員で作られた部隊と、フリーターをよせ集めた部隊く
らいの戦意の差はあったと思います。


8 :名無しさん@1周年:2000/06/05(月) 12:51
>3
雑賀孫市ってのは、雑賀地方でいわゆる「鉄砲のうまい勇者」に
与えられる称号、つまり横綱とか名人みたいな感じのもので、
実は何人もいるんだよ。
鈴木重秀もその一人ってこと。
(別に鈴木姓の武将だけじゃなかったような)

9 :目先の利益としては:2000/06/05(月) 14:20
戦利品(女含む)などがあるので立身出世だけとは限らんぞよ。

10 :スーパー師匠:2000/06/07(水) 15:23
戦国時代後期ともなれば、足軽の地位は相当に高いものです。
常雇いの足軽になれば、村の新年会なんかでも庄屋さんより上席に座ります。
足軽になれば、いままで自分を見下してような連中を見返せたわけです。
たしかに足軽から城持ち身分まで出世するような人は僅かだったでしょうが、
村レベルで考えれば、とんでもない身分の逆転が当然のように存在したのです。

11 :名無しさん@1周年:2000/06/07(水) 20:22
でも、足軽って士分じゃないんでしょ?

12 :スーパー師匠:2000/06/07(水) 21:23
足軽は士分ではありませんが、苗字帯刀を許される身分です。
士と農の間に入れるべき階級です。
明治初年の戸籍でも足軽は卒族とされ、平民より1ランク上でした。

13 :名無しさん@1周年:2000/06/07(水) 21:26
>12
しらなかった。勉強になります。

14 :名無しさん@1周年:2000/06/07(水) 23:18
>10
それ何が出典ですか?

15 :スーパー師匠:2000/06/07(水) 23:54
出典というか、史料調査で大昔の戸籍簿の現物を見て知りました。
卒族なんて階級が実際にあったんですね。
足軽の他、陪臣は士分であっても卒族に区分されていました。
たとえば淡路島の洲本藩は徳島藩の支藩なので殿様以外全員が卒族です
いわゆる軽輩は、みな卒族と考えて良いようです。
のちに卒族は廃止され、あらためて士族と平民に振り分けられました。

16 :スーパー師匠:2000/06/07(水) 23:57
あ、ご質問は10番の方でしたか。失礼しました。
足軽出世物語の実例を記した古文書が安房里見家文書のなかにあり、
たまたまそれを読む機会がありました。
乱暴者で村の鼻つまみだった青年が、故郷に錦を飾るという、
ごくありきたりな内容だったと記憶しています。

17 :14>16:2000/06/08(木) 01:41
ありがとうございます。もしかしたら同種(業?)の方かもしれないです。
足軽出世物語って興味あります。『千葉県史料』なんかに載ってますか?

18 :スーパー師匠:2000/06/08(木) 04:28
それ二十年前、大学院生だったときのことで、
しかも、よその大学の先生の助っ人で古文書読みを手伝ったんで
いま活字史料になっているとしても、どんなものになっているか?
そんなことで申し訳ありません。
御同業>そうかもしれません。私は一匹狼なんですけど……

19 :名無しさん@1周年:2000/06/08(木) 08:42
>常雇いの足軽になれば、村の新年会なんかでも庄屋さんより上席に座ります。

江戸時代においても、足軽身分は庄屋・名主階級よりも上位だったんでしょうか?

20 :スーパー師匠:2000/06/08(木) 09:33
江戸時代の名主・庄屋は郷士身分であることが多いので、だとすると
士分ですから足軽より上です。郷士や御家人の身分は売買の対象でも
ありましたから、江戸時代には金の力で身分の逆転を図ることが可能
であったと言えます。勝海舟の先祖も金で御家人株を手に入れてます。
土佐郷士のように郷士が差別的な待遇を受けた地域でも、年賀の席や
正式な儀式の際は、家格優先で、ときには藩士より上席を与えられる
郷士もあったそうです。

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